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理解してくれる人の重要性「JOKER」

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映画は最近月1〜2くらいの頻度で観ているけれど、先日「JOKER」を観てきました。もうちょっと後にと思っていたけれど、その日に観ようと思っていた映画を些細な理由で諦めたので、代替としてその日に観てきました。

「JOKER」というキャラクター自体、いや、バットマン自体、自分はあんまり観ていない。そもそも、いわゆるアメコミについてはあまり興味がなく、バットマンだろうがスパイダーマンだろうがほとんどまともに観ていない。映画然り、コミックス然りだ。(でも、スーパーマンは観てるのが不思議)

なので、「JOKER」がどの程度の悪役なのかは実感がない。ただ、この映画が悪役である「JOKER」に至る経緯が描かれていて、決してハッピーエンドではないことは観る前から理解できていた。そんな前提を踏まえての感想です。

映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』オフィシャルサイト|10月11日(金)劇場公開
ホアキン・フェニックス×レディ・ガガ。この秋ついに、想像を絶する“悪のカリスマ”の前代未聞の物語が語られる――。

社会からの阻害

この映画は個人、また、社会の内面をリアルに描いている。主人公のアーサーに障害の有無があるにしても、人の内面と社会の冷たさを繊細に描いているところは好感が持てる。

個人的には彼、アーサーの心情は理解できる。頑張っているのになかなか人に理解されない、また、理不尽な扱いを受けて憤慨する、アーサーでなくても多かれ少なかれそんな経験は誰にでもある。そんな連鎖がアーサーを押し込めていく様が、とてもリアル。

どうしても社会の陰の部分は弱者に押し付けられがちだ。押し付けられた負の感情は、そこに少なからず憤りの感情、ともすれば敵意を生み出してしまう。

人はどうしても他人と自分を区別しがちだ。それがポジティブな理由でも、ネガティブな理由でもだ。特に、社会的な強者と弱者という区別は「差別」や「偏見」という問題を生んでしまう。本来、強者と弱者なんてほんの少しの違いでしかないのに。

それが全世界的な規模なのか、あるいは小さなコミュニティの範囲なのか、事の大小はともかく、よくある光景だ。

サイコパス?

定義がちょっとふわっとしているけれど、サイコパスなんてキーワードも本作を語る上でよく聞く言葉だ。自分も専門家じゃないので詳しいことは知らないが、サイコパスって生まれつき自分の欲望に対して制御が効かない人のことを言うのかなと思っていた。例えそれが刑法に触れることでも、制御ができずに衝動的に、継続的に行動してしまうような人物だ。

が、アーサーの場合は障害はありつつも、様々な理不尽なことから後天的に社会に敵対心を持つ人間になっていった気がする。解決の仕方が乱暴だけれど、あくまで義憤や諦めに似た感情からの行動だ。あまりに理不尽な状況を経験し、彼は真っ当にに生きることを諦めてしまった。自分はそう感じた。

そうであれば、それはアーサー個人の問題なんだろうか。否、社会が彼を生み出した、社会全体の問題だと言っていい。

自分を理解してくれる存在

彼は劇中でも、また、本作のレビューを見てもダークヒーローとして取り扱われていることもある。自分は、ヒーローなんて全く感じなかった。彼が悪役だからじゃない。彼に対しては、同情と哀しさしか感じなかったからね。

なので、見終わった後はなんというか、哀しさをがっつり感じた。誰か、1人でも彼の味方がいれば彼の人生は違っていたんだろうと思う。なので、家族でも、恋人でも、友達でも、1人自分を理解してくれる人を見つけることは大事なんだと思う。自分も、誰か1人自分の味方でいてくれれば大抵のことは耐えられるんじゃないかと思う。そんなことを考えさせられる映画です。

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